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わかりやすい漢方薬解説・漢方理論解説

漢方医学の歴史 (2)

日本における漢方の歴史、その前編は中国からの輸入の歴史でした。後編は輸入されてきた中国伝統医学を日本人に合う形に変えていった時代から今日に至ります。前編で述べたようにまず中国伝統医学は朝鮮半島から日本へ流入が始まり、その後は飛鳥時代、奈良時代、そして平安時代前期まで遣隋使や遣唐使といった交易の中で継続的に伝来してきました。


時はさらに進み室町時代の1400年代になると中国(明)との交易が活発になります。この時期は東シナ海で海賊行為を行っていた倭寇と正規の貿易団を区別するため勘合貿易が行われていた頃です。


戦国時代の幕が上がった1500年頃、明から帰ってきた留学者たちによって金元時代のさまざまな治療理論が日本に伝わってきました。この金元時代流の医学は田代三喜(たしろさんき)やその弟子である曲直瀬道三(まなせどうざん)らによって発展し、繁栄します。


その一方で江戸時代、1600年代頃になると複雑化する中国伝統医学の理論に対して疑問が提起され始めました。それまで輸入され続けてきた理論重視の医学から実践重視へと大きく潮流が変わってきたのがこの時代です。


理論重視から実践的な治療への原点回帰を目指した勢力は自分たちを古方派(こほうは)と呼びました。これは同勢力が中国において紀元後200年頃、中国において漢時代の後期に当たりに書かれた傷寒論や金匱要略を治療の中心に据えたからです。


吉益東洞(よしますとうどう)ら古方派は傷寒論や金匱要略を大切にしつつ、より日本人に合う独自の治療法を模索します。中国では重視されなかった腹部の状態から合う薬を考える腹証の発展はその代表格です。この背景には鎖国によって中国から医学に関する情報が入りにくくなっていたことも影響しているでしょう。


その後、江戸時代中期になると古方派、陰陽五行論など金元時代の医学を基礎とする理論重視の後世方派(ごせいほうは)または後世派、良いものは幅広く取り込もうとした折衷派(せっちゅうは)などが立ち並びます。そしていよいよ鎖国の時代から開国の時代になると、日本にもオランダを中心に西洋医学が輸入されてきます。


明治時代になると中国伝統医学を基礎にする医学派は自らの医学を「漢方」と名乗ります。つまり今日まで続く「漢方」という言葉の歴史は意外にも浅く、この時代に急拡大してきた西洋医学であるオランダ医学などと自らを差別化するために生まれたという経緯があります。


文明開化の明治時代から大正時代にかけて漢方は西洋医学(主にドイツ医学)の勢いに押されがちになります。今日まで至る「医学といえば西洋医学」という潮流が決定的になった時代といえるでしょう。漢方の治療家たちが日本政府へ漢方医学の重要性を訴えるも勃発した日清戦争や日露戦争などの影響を受けて、その存在が顧みられる機会は失われてしまいます。


昭和に入ると細々と生きながらえていた漢方医学の効果が徐々に見直されてゆきます。くわえて戦後には服用や保管が容易なエキス製剤も開発され、漢方薬の幅広い普及に貢献しました。そして平成以降は西洋医学とは異なる治療の選択肢として漢方は再評価され(くわしくはこちら)、今も連綿と受け継がれているのです。


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文・女性とこどもの漢方学術院(吉田健吾)